コンドル、鷹、フクロウ、クジラ

3年間続けたテレビ番組のADという職業から足を洗った。「テレビ業界で裏方として働き、活躍すること」というかつての目標は目標のまま終わった。けど個人的な感覚としては、挫折というよりはなんというか…甘えからの脱却をした感覚だった。

昔よりマシになったとはいえ、テレビ業界は今でもブラック。少なくとも番組によるかもしれないけど、自分が知っている範囲では。連勤が2ヶ月ほど続いて、精神的にも体力的にも限界に達し、買い出しのために外出した際には「目の前の道路に飛び出して車に轢かれれば仕事を休めるだろうか」という思いがよぎったこともあった(運転手側の気持ちを考えられない最悪の感情)。でも僕の場合、そういう気持ちがあまり持続しない。現場が盛り上がったり、番組を見た視聴者の反応がよければ、すぐまた上機嫌になる。お笑いが好きだった。でもそれは辞めなくて済んだ理由であり、辞めたくなかった理由ではない。僕が辞めたくなかったのは辛い環境で頑張る自分に酔う時間が好きだったからだ。

勉強でもスポーツでも中途半端な成績で、あまり目立つタイプのキャラでもなかった僕にとって、「何かを達成したわけでもないのにただ続けるだけで褒められる場所」というのはこの上なく都合が良かった。サンドウィッチマンM-1優勝、平成ノブシコブシの「(株)世界衝撃映像社」での部族ロケ、「クイズ☆タレント名鑑」の検索ワードクイズなど、たくさんのお笑いのおかげで生かされ、夢を与えてもらったのに、いつしか夢は夢として機能せず、ただの居心地良い場所になっていた。ここにいれば、成功できず不幸になったとしても、自分は笑顔で死ねるだろうと思っていた。そういえば新卒の頃、安定志向の親や親戚に制作会社に勤めることを反対された時、「自分の人生だから好きにしていいじゃん、ダメだったらダメで責任取れる」と反論していたっけ。この「責任を取れる」は「不幸になっても自分を納得させられる」という意味で使っていた言葉で、あの時の自分にとっては「巻き込んでしまう周囲の人生にも」という意味ではなかった。

たぶんテキトーに続けることはできる。でもきっと大成しないだろう。なら、辞めるべきだと思うようになった。「続けることに意味がある」という言葉を信頼できなくなっていた。

さて、ここからはこの先の人生で僕に課されたある一つの課題の話をしよう。ずばり、その課題とは僕が守りたいと思っている、とびきりキュートな女の子を「言い訳」という言葉からどこまでも遠ざけることだ。好きな女の子のために仕事を辞めた、好きな女の子のために夢を諦めた、好きな女の子のために…うまく説明できていないかもしれないけど、断じてそういうことではないのだから。僕は僕の人生において、かつてないほどに、積極的な情熱を、積極的な愛を胸に湛えている。

ある日の帰り道、何の気なしに「こぶたたぬききつねねこ」を口ずさむ。合いの手は隣を歩く女の子が担当。

「こぶた!」「ぶーぶー」「たぬき!」「ぽんぽん」「きつね!」「こんこん」「ねこ!」「にゃーお」

「コンドル!」「ク…クォ…」「鷹!」「クェー」「フクロウ!」「ほーほー」「クジラ」「ぶしゃあ」

 

あぁ、僕の人生は大丈夫だな。知らない誰かが言った甘言よりも、好きな女の子とのくだらないノリが僕の歩みに確かな力強さを与えてくれる。

なんでくれたの?

アウトプットもろくにしていないくせして、僕はコンテンツホリックなので、サブスクリプションサービスの加入数が多い。何かを見ながら、もしくは聴きながらでなければ、皿洗いもできないから、その中毒っぷりに呆れられることもある。次から次へと見たいものが溢れていくので宿題は山積みだ。誰かとその体験を共有したいタチなので、毎日のように好きな女の子と予定を合わせて、プロジェクターのある寝室に集合する(それぞれ自分のしたいことが多くててんてこまいだから、同じ家に住んでいても予定を合わせる必要がある)。

ありがたいことに、好きな女の子は、僕が夢中になっている事柄に興味を示してくれることが多い。こないだなんかはスパイダーマンの新作が公開されたことをきっかけに、MCUの履修を始めてくれた。これからも数年続くであろう渦の中に一緒に飛びこむこととなったわけだ。とりあえずはGotGに辿り着くことを目標にしてほしい。僕はスターロードが大好き。

一昨日は一緒にドラマ「ファイトソング」を最新話までイッキ見した。たまたまザッピングしていて気になってしまい、見たいと騒いだら付き合ってくれた。ウチのレコーダーは優秀なので、新ドラマは数話分取り置きしてくれる機能がある。さすがは親戚一同からかき集めた大学の卒業祝いで買った代物なだけはある。

それで、2人してこたつに足をつっこみながら見たわけだけど、なんといっても花枝(清原伽耶)と春樹(間宮祥太朗)の会話の作り方がすてきだった。会話から関係の温度が伝わってくる。2人が訪れたレストランに置かれていた鹿威しについて、春樹が花枝にその名前を教えてあげたシーン。

 

「そうやって教えてくれるの好きです」

「知っててよかった」

 

物知りであることは危険な長所だと思う。鼻にかけてしまうと途端に短所になるから。小学生の頃、卒業文集に載る、クラス内の物知り博士ランキングでトップを狙っていた時期、僕は嫌なヤツだったような。素直な人同士でなければ、教える・教えられるの関係は良好にならない。

そのあと、花枝が「鹿威し」をネット検索して、値段を調べて…。カップルってこういうくだらない会話を積み重ねていくものだ。「どんな会話するの?」と他人から聞かれて、事実をそのまま回答として提出できるカップルはいない。荒唐無稽な会話の繰り返しすぎて、とてもじゃないけど、公開できない。

ドラマの中で発生する出会いというものは、大概は運命的なもの。そしてそれには作為的な匂いがする。創作物なんだから当たり前だ。作曲者とそれに支え続けられてきた者との出会い。「ひょん」がすぎる。すぎるのだけれど、人間同士としての会話の匂いが充満しているから、遠くにいきすぎない。そして、セリフだけでなく、どもりかたなどの一つ一つの仕草がそれを助けている。清原伽耶間宮祥太朗もすごいなあ。あと慎吾(菊池風磨)の清々しいほどの当て馬ぶりもサイコー。

で、今日…好きな女の子が僕が知らない言葉を教えてくれた。「ますます好きになったか?」と聞かれて、僕は素直じゃないので、「これに関しては横ばい」と答えた。

実際のところ、好きな女の子と一緒にいると、毎日が学びの連続で楽しい。先日は人生で初めて、味噌煮込みうどんを食べた。それはそれは素晴らしかった。そしてそのときは「味噌煮込みうどんは麺が硬いんだよ」と教えてくれた。「へぇ〜、そうなんだあ」とアホみたいに言う僕に、好きな女の子が自分の器に入った鶏肉をくれた。

 

「なんでくれたの?」

「愛だよ」

 

「なんでくれたの?」なんて聞いておきながら、どんな答えが返ってくるか分かっていた。好きな女の子は、自分から愛情表現をあまりしてこないので、こうやってたまに催促する。そして僕の催促もまた、愛情表現なわけで。

 

 

 

ファッションショーしてね

『パーム・スプリングス』という映画を好きな女の子と見た。簡単に説明すると、ある1日を永遠に繰り返すループにハマった男女のお話。たとえ死んでも抜け出せないループの中で出会った2人は、自らが孤独にならないために相手を欲するのか、それとも真にその人を好いていて欲するのか。

軽く感想を交わしたあと、いつしかまどろみに耽ってしまったその明くる日は、僕らが一緒に住み始めてちょうど1年経つ日だった。数日前に僕が「記念日だね」と言ったとき、僕の好きな女の子は「覚えてたんだ」と目を輝かせた。ナメられたものだ。僕の愛情を低く見積もりがちなので、その辺は直してほしい。

記念日といっても、その日は特別なことをする予定を立てていなかった。しかし休日でもあり、せっかくなので出かけたい。僕の好きな女の子が「この時期に着る服がない!どうしよう!」と最近騒ぎがちなので、その悩みを解決するべく、僕たち秋服探検隊は原宿へと向かった。

原宿という街はなかなか不思議で、ここは原宿だと思いながら歩いてるといつしかそこは表参道になっている。その逆もある。街から街へと向かう時、大概は人通りの少ないエリアを経由しなければならないが、原宿–表参道間にはそれがないからだろうか。それとも僕に土地勘がないからだろうか。おそらく、好きな女の子に聞いたら後者と即答されると思う。僕は時折、いや結構な頻度で方向音痴を発揮して困らせている。

「会社にも着ていけるし、普段着としても使える服が欲しい」とのことだったので、2人して「カワイイ!」と思わず吠えたFILAのトレーナーは見送った。しかし、その後も僕は懲りずに、ある店の入り口の脇にいたマネキンが着こなしていた、会社に着ていくにはビビットすぎる黄緑のニットに目を奪われてしまった。

「男性物だけでなく、女性物にも興味を持つようになった」。これを僕の中にある世界の言語に意訳すると「好きな人がいる」ということになるようだ。

僕の好きな女の子は自らの身体にジャストフィットし、なおかつオフィスカジュアルとしても通用するデザインの3点ものお洋服を選んでいった。濃い青のパンツをあてがいながら、「私のためのパンツじゃん」とはしゃいでいたのはかなり可愛らしかった。しかし諦めの悪い僕は、「これは払ってあげるから」と言って、黄緑ニットもレジに連れていくようにお願いした。FILAのトレーナー含め、一目惚れしたものすべてを買ってあげられる財力があれば……。申し訳ない。けれども、持っている幾ばくかの財産をやりくりして、2人で日常を楽しむのも悪くないものだ。

帰路に着く電車の中で「帰ったらファッションショーをしてね」と言うと、はにかみながらうなづいてくれた。

途中下車して良さげなワインバーに寄り、ちょいと酔いどれ気分になってから、僕らは家にたどり着いた。そして、購入した服のタグを切り終えたことをきっかけに、僕の好きな女の子はファッションショーが始めた。ヨギボーにどっかり座りながら、「回ってごらんなさいよ」なんて生意気な言葉を吐きながら、それを楽しむ夜。特別ではないけれど、いい日になってよかった。
もしループをしなければならないのなら、こんな日でもいいなと思う。しかし、もうすでに真に好いているから欲しているのだとわかってしまっている僕には、物語によって教訓が与えられる必要がないので、きっとそんな事件は用意されないと思う。

aiko歌うのうまいねぇ

男性はカラオケで女性にaikoの曲を歌われたらうっとりするように作られている…なんて文章は主語がデカすぎるのでよろしくない。けれども、主語を大きくしたくなるほどに、それは自分にとって当たり前のことで、他人との共通認識であってほしいと思ってしまう。というか実際、こんなこと言っている人は山ほどいる。

「僕の好きな女の子」は歌が大変お上手である。ちなみに僕はお上手ではない。あまり音程が取れないし、2、3曲歌っただけで喉が潰れかけるし、特にリズム感はヒドいものだ。太鼓の達人を面白いと思えないし、ドンキーコンガミニゲームだけ楽しめた。ポップンミュージックは友達の名プレイを感心しながら見たことがあるがやったことはない。

歌が上手い人とカラオケに行くと劣等感を抱いてしまうので、「好きな女の子」と過ごすようになる前は、1人カラオケによく行っていた(下手だけれど歌うのは好き)。しかし、最近は僕から誘って2人で行くことが多い。「好きな女の子」の、歌のファンなのだ。ちなみに顔ファンでもある。

「別の世界では姉弟だったのかもね」という歌詞がある名曲があるけれど、僕と「僕の好きな女の子」については、きっとそんな世界線の可能性よりもアイドルとファンの関係性だった可能性のほうが高いだろう。歌も上手いし、ビジュアルも抜群だから。

そう考えると自分の幸せ者ぐあいを改めて実感できる。「好きなアイドルがクラスに転校してきた!」的な、天文学的確率で発生するイベントに賭けずに済んでいるのだから。

僕が宇多田ヒカルハロプロの曲をリクエストし、「好きな女の子」が歌う。そしてaikoの「milk」や「花火」も。この時間は大変心地よい。

aikoの曲はかなり難しい。なめてかかると聞いてられない歌になってしまう。「僕の好きな女の子」はそれをさらりと歌ってのけるから、トンデモナイなといつも思う。

歌というのは、上手い下手ではなく、誰が歌うかという視点のほうが、大きな意味を持つ。けれど、上手いに越したことはない。まあそもそも「誰が歌うかという視点」については、僕にとって「好きな女の子」が最適解だ。

 

今日は締めの一曲に「ボーイフレンド」をリクエストした。快諾し、正確なピッチで歌いあげていく。

歌い終わった「好きな女の子」に僕は言う。

aiko歌うのうまいねぇ」

「ふふん」

aikoばりの愛嬌のおる笑顔を返ってきた。

二回も延長してよかったな。

 

 

三人分やってあげるよ

「大豆田とわ子と三人の元夫」が始まった。
今期見たいドラマとして、僕がこの作品を挙げたとき、僕の好きな女の子は「もういいかな」と坂元裕二ドラマについて食傷気味であることを宣言した。だが僕が「じゃあ一人で見るね」と言い出すと、「面白かったらムカつくから見る」と言い、付き合って見てくれることになった。こういうところもかわいいと思う。

結局、第一話を見終えて僕の好きな女の子はなんだか不服そうに「面白い」と降伏してみせ、第二話の予告映像にて「充電完了」と呟いた岡田将生に僕らは二人して「うおーい!」と声を上げたのだった。

坂元裕二が脚本を担当する作品を見るたび、僕は「この人は大喜利が強いなあ」と思う。昨晩見終えた2話で、娘に自分たちの関係性が変わっていないことを訴えるために「〇〇より嫌い」をいくつも挙げていくシーンはそう感じざるを得ない例の一つ。そして僕はこの脚本家の大喜利力に感嘆すると同時に、セリフを吐く役者の方々の凄さを思い知る。なぜならこの作品に散見される「大喜利の答え」は、フリップに書いて発表するか、ひな壇に立つ者から放たれて然るべきレベルなのだ。とてもじゃないけど、ごく一般的な生活者たちから零れる会話のレベルに相当しないような。それを登場人物が口にしてもおかしくないように、浮かないように、「名言風」になりすぎないようにするのにどれだけの技術が必要なのか。香取慎吾の演じる孫悟空が口上の後に放つ言葉ではなく、生活者たちがつむぐ言葉なのだ。
今までも坂元裕二脚本のドラマに参加している松たか子松田龍平の発話はやはりたまらないマッチ感があるし、角ちゃんも生活者を登場人物とするコントを行う東京03のメンバーだけあって圧巻の演技ですね。
そして、岡田将生が演じる「シーズン3」もとても素敵でした。エリート弁護士というと、一見とっつきにくいような感じもするけれど、第二話冒頭で挫折の経験が明かされたり、運動神経の悪さから明るくなかった学生生活を垣間見ることができたり、何よりとわ子を引きずりまくっている愛すべきルーザーとしての一面がある。負け顔を見て好きになる僕は、まだまだ未熟かもしれないけれど、でもやっぱり愛おしい弱さは人間に必要だと思う。

こんな会話をしてみたいなあ。
同じく坂元裕二脚本「anone」の、ハリカちゃんと彦星くんが「ノーベル賞を誰にあげたいか」を語り合うシーンを見て、聴いて思ったことがある。坂元裕二の脚本ドラマで交わされる会話にはそう思わせる練度がある。

そして僕は幸せ者なので、そういうような、宝物にできる会話を交わせる相手にもう出会っている。

「私も三人欲しいなあ、元夫」
「僕が三人分やってあげるよ」

100人分くらいの表情の豊かさを持つ女の子の側にいるんだから、才能が無くったって三人分くらいは努力しないと。

元夫を三人分なんて、なんだか縁起が悪いようにも思うけれど、御都合主義者の僕は気にしないことにする。
 

 

共通点なんてお腹の空き具合ぐらいでいい

「花束みたいな恋をした」という映画を好きな女の子と見た。

 

この映画の前半部分、見るのがつらくて…というのも、退屈だったというわけではなく。恋に落ちていくシーン、2人の価値観が同じであることが、同じ作品が好きという事実の発見の連打で表されて…。

 

麦くん(菅田将暉が演じる子)の部屋の本棚にAKIRAが並べられているのを見て、僕が好いている女の子は、僕の方を向いて笑った。

 

大して好きでもないのに、僕がAKIRAを本棚に並べていたことがあるのを知っているからだ。

 

僕は典型的な「〇〇が好きな自分が好き」という感情に浸る不届き者で、かつては一丁前に「私よりも私と呼ぶべきガール」との恋を追い求めていた。

 

麦くん、絹ちゃん(有村架純が演じる子)は、本当に、真に、作品に出てくるカルチャーが好きかもしれないから、重ねるのは失礼かもしれないけれど…ともかく同族嫌悪的な感情を抱いたわけで。どうやらこれからの僕は、分身を求めるような恋をしないつもりらしい。「私よりも私と呼ぶべきガール」=「自分の分身のような人」とは限らないことにはもう気づいた。

 

僕だって、典型的な「〇〇が好きな自分が好き」という感情に浸る不届き者だったけれど、舞城王太郎はやっぱり好きで、ナンバーガールも好きで、他にもいろんなものがちゃんと好きで、今でも自信を持って、嘘偽りなく好きと言えるものはたくさんある。

坂元裕二も大好きで、この映画も好き。

(イヤホン、靴、「価値観が広告代理店」「じゃあが多い」…etc)

 

 

だけど、僕の隣に座った女の子がこの映画を好きでも、嫌いでも、どちらでもよかった。

 

分身のような相手と出会い、恋が成就するのもすてきなことだけれど、あの子もコレが好きだったなってふとした瞬間に思い出してしまう、花束のような恋もすてきだけれど、

 

映画館を出たとき、時刻は20時ごろだった。

 

「お腹すいた?」

「お腹ね、パンパンではないくらい」

「私もお腹いっぱいってわけではないよ」

「…やっぱりねえ、共通点なんてお腹の空き具合ぐらいでいいよ」